06. 日本初の英語教師

カナディアン・ロッキーを越えて06. 日本初の英語教師

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旅の初日の夜は、カムループスという街で一泊。翌朝、6時すぎにはホテルを出て、再びロッキーマウンテニア号に乗り込んだ。

2日目の列車の旅も、まずは素晴らしい朝食からスタートした。フレンドリーな笑顔の女性乗務員が朝一番のコーヒーを注いでくれる。なんだかきょうも、いい一日になりそうな気がしてきた。

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外を眺めていると、この写真で見えるだろうか、畑の中から手を振る人がいる。

ロッキーマウンテニア号に乗っている間、何度も何度も線路わきで手を振ってくれる人を見かけた。つくづくフレンドリーな国民性だと思う。

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さて、きょうの朝食には、「EXPLORER‘S OMELETTE」を注文した。目の前に置かれた時はどこがオムレツなんだろうと不思議に思ったけれど、よく見ると確かにオムレツだ。

カリカリのダブルスモーク・ベーコンとソーセージ、それにマッシュルームとトマト。ジャガイモが脇を固めるオムレツの中にはモッツァレラチーズが。

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こんなメニューも出てきた。「BEST IN WEST BUTTERMILK PANCAKE」。フワフワで軽いバターミルク・パンケーキの上に、甘いオレンジの皮が乗っている。

イチゴと、あの食用ほおづきが彩りを加え、プリザーブとメープルシロップが添えられている。

しかも、またしてもあのフレンドリーな彼女のサーブだ。これでおいしくないはずがない。

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さて、幸せいっぱいの朝食を終えて2階に戻ると、そろそろ列車がクレイゲラキーに差し掛かる、というアナウンスがあった。

1885年、大陸を東西につなぐ線路に最後の犬釘、ラストスパイクが打ちこまれた、あのクレイゲラキーだ。

今回のロッキーマウンテニア号の旅では、なんといってもカギになる撮影ポイントだ。写真が撮れなかったなんてことは許されないので、念のため、早めにスタンバイしておくことにした。あくまで念のため、だった。

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階段を下りてオープンデッキに出たところで、少し先の方から何やら見たことのある建物が近づいてきた。

それはあっという間に僕の後方へと流れて行った。無意識のうちに振り返ってシャッターを押した後、ファインダーから目を離して肉眼で確認する。間違いない、紛れもなく日本を発つ前にYouTubeで見た、あのクレイゲラキーのインフォメーションセンターだ。事前に確認しておいてよかった。

とすると、僕の背後にはもう、今回の旅で絶対に外してはいけない撮影ポイント、あのピラミッド型のラストスパイクの記念碑があるはずだ。

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急いで振り返る。当然、ある。いや、あった、しかも目の前に。あわててシャッターを切る。

カナダ史にとって重要な意味を持つこの記念碑には、それを象徴するかのようにカナダ10州それぞれの特産の石がはめこまれているはずだ。しかし、そんなことを確認する余裕はもちろんない。

おまけに記念碑の前に立ちはだかって、ロッキーマウンテニア号にカメラを向けている人までいる。じっと動かないところを見ると、写真ではなく動画を撮っているらしい。立ち位置はなにもここじゃなくてもいいだろうに。なんとも残念な写真になってしまった。

きょうはいい日になる予感でいっぱいだったのに、予想に反してハプニングの連続だ。「カナダ史で最も有名な写真」と呼ばれるあの光景に思いを巡らせる想定だったのだが、余韻も何もないまま、ラストスパイクとの出会いはあっという間に列車の後方へと過ぎ去っていった。

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もう少し早めにアナウンスしてくれれば、などと思いながら2階の席に戻ったが、よくよく考えてみれば、このラストスパイクだって「予期せぬ出来事」のおかげで何とか実現に至った、と言うこともできる。

実は大陸横断鉄道の総工費は当初の予想をはるかに超え、カナダ太平洋鉄道(CPR)は1884年末に破たんの危機に瀕し、翌85年には政府に追加融資を嘆願したものの認められず、破たん必至の状況に追い込まれていたのだ。

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しかし、その時にCPRを結果的に救ったのが、「メイティ」と呼ばれる人たちによる武装蜂起だった。

鎮圧のために急きょ、鉄道で軍隊を派遣する必要に迫られた結果、カナダ政府は方針を180度転換し、CPRへの追加融資に踏み切る。

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メイティとは、白人と先住民の混血の人々たちのことだ。かつてカナダの地に入植した白人たちは、ヨーロッパで高級帽子「ビーバーハット」に変身するビーバーの毛皮を入手するため、先住民のもとへと足を運んだ。

その中で先住民の女性と結婚するケースも相次ぎ、彼らの間に生まれた子供たちがやがて「メイティ」と呼ばれるようになったというわけだ。

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バッファローを追う狩猟生活を営んでいたメイティにとって、カナダ政府が版図を西へと広げ、入植者を送り込むことは、生きる場所を奪われることに等しい。

だからこその武装蜂起だったが、皮肉にもそれが入植者を運ぶCPRを救い、大陸横断国家の建設を後押しすることになってしまった。

実はメイティの武装蜂起は1869年に続き2回目だった。その間に約15年の月日が横たわっているが、メイティが置かれた状況は一向に改善されなかった、ということだろう。

さて、メイティのこうした「生きにくさ」は、日本とカナダに不思議な結びつきを生むことになる。

1848年、ラナルド・マクドナルドという20歳代のメイティの青年がアメリカの捕鯨船を抜け出して北海道に上陸する。偶然ではない。彼はメイティにとって生きにくくなっていくカナダを離れ、明確な意思に基づいて、なぜか日本を目指したのだ。

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©Rocky Mountaineer

鎖国下の日本で長崎に護送されたラナルドは、強制送還までの1年にも満たない滞在中、日本人通詞に英語を教えた。この「英語」が1853年、ペリー率いる黒船来航の際に一定の役割を果たすことになる。

苗字に「Mac」とか「Mc」がつく人はスコットランド出身だと聞いた。ラナルド・マクドナルド青年の父親もスコットランド出身だ。

実はメイティたちが住む場所に、生きるべき土地を求めてやってきた移民の多くは、スコットランド人だったそうだ。牧羊業の拡大によって土地を奪われたスコットランドの農民を救うため、北米への移民が推進されたのだという。

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©Rocky Mountaineer

“coast to coast”、大陸を東から西へと結んだ線路は何事もなかったかのように、ロッキーマウンテニア号をカナディアンロッキーへと運び続けている。

この列車の旅という「今」を心から楽しむために、ほんの少しでもいい、様々なことが起こった「歴史」についての知識を持ち続けておきたいと思う。

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